私の生物物理学
 
岡崎国立共同研究機構・統合バイオサイエンスセンター
木下 一彦
 
(2000年11月 執筆)
  私は、今から30年ほど前に大学を卒業する間近まで、生物学が大っ嫌いだった。その当時の生物学は、雄しべが何本花びら何枚というたぐいで、単なる記憶の学問だったのである。物理学科にいた私に生物への目を開かせたのは、一枚の電顕写真であった(図1)。 筋収縮の滑り説の根拠となった写真である。太い線維と細い線維が互いに入れ子になっており、互いの間に滑り込むことにより筋肉が収縮する。はーあなるほ ど、そうなってるのかあ。初めて、生き物の世界にも“説明”があると認識した。しかも一目で分かるという明快さである。私には考えつけそうもない説明であ る。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

図1.筋収縮の滑り説。左下が電子顕微鏡写真(H. E. Huxleyによる)、その右は説明図。筋肉の中には太い線維(ミオシン分子よりなるthick filament)と細い線維(アクチン分子よりなるthin filament)がある。筋肉の収縮は、両線維がそれぞれの長さをかえることなく、互いの間に滑り込むことにより起きる。収縮前(上)と収縮後(下)の 電子顕微鏡写真を比べると、太い線維の長さが変わらないことがよく分かる。

 

   もっとも、その場で納得してしまったのはその頃の私がシロウトだったからで、今だったらそう簡単に信じない。話がそれるが、信じるというのは宗教行 為で、科学者が何かを信じているというときは、きちんとした根拠が示せません、ということの告白にすぎないと、“信じて”いる。同様に、「これは真実で す」と心の底から言う人がいたら、その人は“真の”科学者ではないと思う。
  ところで、図1の 電顕写真を紹介してくれたのは、その上に写っている同級のI氏で、今でも公私ともに親しくさせてもらっている。大学祭で、蛙の筋肉を使った実験をしよう、 と誘ってくれたのである。私は蛙をさわることができないのだが(ウサギなら持てる)、私が実験の道に進むことになったのは、この時の数週間の高揚による。 I氏が蛙を解剖し、私が測定装置らしきものの一部を作った。この役割分担は、その後数十年にわたり固定されてしまった。I氏がいなかったら、私が生物物理 の世界に入ることはなかったであろう。
  ひるがえってみると、若い頃物理学に惹かれたのは、単純かつ万能な説明に圧倒されたからである。大学に入ってみると、単純ではすまないことを思い知ら された。そこで生物に逃げたわけだが、悪い選択ではなかったと思う。生物物理学における私の初心は、自分でも説明をしたい、というところにあったわけであ る。残念ながら、この初心は、自分が実験をしている間は貫けなかった。
  実験をしていると、あれこれ小さな工夫ができるし、たいした意味はなくてもデータが出てくるから、いくら続けても飽きることがなかった。これがくせ者 で、説明が目的であることを忘れてしまったのである。いや、時には考えるのだが、自分の実験能力の範囲ではとても確かめようもなく、空想に終わっていた。 自分の力の範囲内でできることはきちんとしたデータを出すこと、もしかしたらそれを誰かが使ってくれるかもしれない、という態度に終始した。なんのことは ない、もっとも嫌っていた記述の学問の、隅の隅に棲息することになったのである。
  学生さんに来ていただける身分となり、同時に、実験をすると息切れがする年になってしまった。くやしいけれど、何をやっても学生さんのほうが上手とい う事態になってしまった。すると、説明のための実験を、学生さんにお願いすればよいのだということがわかった。しかも他人には、力の範囲をはるかに超えて いそうなことでも、平気で頼めるのである。だませば不可能も可能になることを教えてくれたのは、Y氏である。だますというのはけしからん表現だと叱る人が いるのでお断りしておくが、彼に直接言われたわけではない。彼の所の学生さんがとんでもない快挙を成し遂げたのを見て、勝手に教わった。自分で自分をだま すのは難しい。若い人には、うまくだまされなさいよ、できるかもしれないと“信じ”なさい、と話すことにしている。
  他人様が、たんぱく質の分子たった1個でできた回転モーターが存在することを、光学顕微鏡の下で見せてくれた。モーターの回転軸と目されるサブユニットに、長い棒を付けてみたところ、目の前で棒が回るのが見えたのである(図2)。あまりに見事な回転ぶりだったので、一目で、これは“ほとんど真実”であろうと直感した。この実験を自分でやっていたらどんなによかっただろう。くやしいからこのモーターの実験には手を出さない。図2の漫画は嘘である。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 図2.たんぱく質一分子でできた回転モーターF1-ATPase (赤)。上中央の濃い赤の部分が回転する。それを証明するため、アクチン線維(上部の横向きの長い棒;右端が切れているが実際の長さは図に示されている部 分の百倍くらい)を目印として付けた。下の連続写真に見られるように、顕微鏡下でアクチン線維は120度おきに回転し、F1-ATPaseはステッパーモーターであることが分かった。我々の体の中では、このモーターが逆回転することにより、エネルギーの素であるATPを合成している。
 
  身近な他人様たちにお願いして、このモーターの回転の機構を説明してもらいたいと思っている。それだけでなく、いろいろな分子機械の働く仕掛けを、片 端から説明できるようにして欲しい。分子機械は、体を曲げたり伸ばしたり捻ったり、構造変化をすることにより働くのだと思っている。構造変化の原因でもあ り結果でもあるのが、他の分子(ATPのような低分子や別のたんぱく質分子)との結合・解離、場合によると光や電位などである。具体的にはこうなんだよ、 と、動画を使って説明したい。
  いろいろな生物研究者と話してみて、私の求めている「説明」は、常にHowであることに気づく。一方、多くの研究者の求めているのは、Who does Whatである。私に言わせれば、次々と名前を付けることである。曰く、目の中で光を吸収するのはRhodopsin、Rhodopsinが光子を1個吸 収したという信号はTransducinに伝わり、それがPhosphodiesteraseを活性化し、・・・・。生き物の働きを支えているのがどのよ うな役者なのか、役者を捜し出して名前を付け(確かに存在し他と区別できるという主張)、その役割を“一言”で表す。もしかして雄しべが何本の記述の学問 に戻ったという印象を持たれるかもしれないが、全く違う。役者の同定は、立派な説明になっている。
  だけれどしかし、である。私は、役者一人一人が一体どう振る舞うのか、その力の素はどのように得られるのか、突き詰めてみたい。配役リストだけではと ても満足できないのである。生物物理屋の多くは私と同じらしい。講演を聴くとき、名前(しかも多くの場合アルファベットの略号)がたくさん出てくると退屈 するのが生物物理屋、たくさん出ないと退屈するのが細胞生物学者、という分類になる。細胞生物学者の前で回転モーターたんぱく質がどう働くか一時間も話す と、飽きられる。
  分子1個でできた役者の振る舞いを理解するには、やはり分子1個を見ないといけない。熱運動にさらされて働く分子達だから、その動きは確率的で、全員 一緒に調子を合わせることはあり得ないのである。あなたがたんぱく質分子だとすると、水分子はパチンコ玉くらい。その熱運動の速度は時速1000キロ、 ジャンボジェットなみである。この速度で雨あられと降り注ぐパチンコ玉の中でのたんぱく質分子機械の働きを、一言で記述するだけではかわいそうである。何 とかしてよく観察してあげないといけない。
  私たちは、もっぱら光学顕微鏡を使って観察している。電子顕微鏡ほどの分解能はないが、同じ分子を連続して、動画として観察できるのが強みである。図2の ように、分子機械は自分の何百倍もある大きな目印を付けられてもちゃんと働く。分子機械よりずっと小さな蛍光色素分子1個を付ければ、細かい構造変化を捉 えることもできる。大小の目印を使い分け、さらに“光ピンセット”や“磁気ピンセット”などによる分子操作も駆使して、“一分子生理学”をやりたいと思っ ている。
  さて、ここまで話を引っ張ってきたのは、図3を見て欲しかったからである。筋収縮の滑り説は受け入れられたとして、ミオシンがアクチンに対して滑る、その仕掛けがまだよく分からない。しかし図3を 見ると、2本足を順に使って、着地した足を前方に折り曲げることにより前進するという、人間が歩くような動作をしているように思える。今年Natureに この写真が発表されたとき、30年前にHuxleyの電顕写真を見て以来の衝撃を受けた。今回は予備知識があり、「やっぱりこうだったか」、なのではある が、論文を読まずとも写真だけで「うーん」とうなった。もちろん、私も今やプロの科学者ですから、歩行説を100%“信じて”いるわけではないですよ。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

図3.ミオシンの一種であるミオシンV(ファイブ)が、2本足を振り回しながらアクチン線維の 上を“歩く”かのように見える電子顕微鏡写真(P. J. Knightらによる)。連続写真ではなく、適当に選んだ写真をそれらしく並べたもの。2番目の写真など、2本の足が前方に折れ曲がり、スキーのテレマー ク姿勢のように見える。真珠のネックレスをひねったようならせん構造を持つアクチン線維は、単なる足場ではなく、アクチンが主役となってミオシンを動かす のだという説もないわけではない。
 

 Back to Kinosita

 Back to Kinosita Lab Home